遅ようございます(起床10時半)。休日だとは言え、私にしては珍しく遅い目覚め。昨夜は相方の店に友人Z氏や若いLカップルが来てくれて、終電を逃す決意をしたZ氏が我が家にお泊りになった。朝方まで飲み、話明かして、遅い朝を迎えたというわけ。
今、私がブログを書いている間に、相方とZ氏は朝ごはんを作ってくれている。私は相方の鼻歌に合わせて、PCでヅカミュージックなど流すなど。
↑ふたりが作ってくれた朝食。立派な和定食じゃないか!
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昨夜Z氏が連れてきたお若いLカップル、初々しいふたりに四十路Lたちが「馴れ初めは?」などと下世話な質問を投げかける。久しく恋愛のきらめきから遠ざかっている私には、ふたりの若さと透明な輝きが眩しい。聡明さの滲む言葉で、始まったばかりの「ふたりのあれこれ」をチラ見せしてくれるおふたり。
自分より若い人と話す時、限りなく「おっさん」的になっていく自分を感じる。年長者のどうでも良い経験則を開陳し、したり顔で話す自分を俯瞰で見ると、「きもいわ、お前!」と頭を叩きたくなる。世の中で叩かれまくり、時にはネタ的に面白がられる「おっさん」は、女である私の中にも生きているのだな〜。
内なるおっさんにやや引きしつつも、「馴れ初めインタビュー」は続く。恋愛話の中で時々聞かれる「人を好きってことがよく分からない」という言葉、すでにお付き合いしているふたりの口からも溢れる。
「相手に惹かれるというのは分かるけど、恋人とか愛してるという言葉はしっくりこない」とおっしゃる。ふたりの関係に名前を付けるのがどうもね、という感じらしい。自分たちの感覚や言葉への繊細な姿勢、私にもそんな時代が……記憶にないね。
おっさんな私は「そもそも日本人は実感を伴った「愛してる」なんて、なかなか言わないかもね」なんて言っちゃう。そんな話はどうでも良いのよ、ふたりの超個人的な実感の話をきけよ、とノリツッコミしちゃうよね。
おふたりは非常に「言語化」が得意とお見受けしたが、それでもというか、だからこそというか、言葉が実感を裏切ることに敏感な様子。Z氏や相方は「言葉にするの難しい〜」と言う。私は言葉に置き換えないと気持ちが悪い、無理矢理にでも言葉にしたい人。
言語化は輪郭を与える作業、実感を切り取り言葉という箱に入れる作業。本来はもやもやとつかみどころのない想念、気持ちが、言葉になることで掴めるようになるのだが、その作業では何かがこぼれおちたり、余分が混じってしまったりする。
自分の実感に誠実であろうとすると、自然と慎重に言葉を選ぶようになるし、Z氏や相方のように「言葉にするのは難しい」となる。易々と言語化してしまう私のような人間は、効率的ではあるが丁寧さに欠け、ともすれば選んだ言葉が実感を反映してない事態も起こりうる。
若いふたりとの会話は、もう少し言葉を丁寧に扱っていた頃を思い出させてくれた。そう、相方と知り合いお付き合いが始まったばかりの頃は、「相方のセンスに響く言葉を」と緊張感のある言葉選びをしていた気がする。
せっかくブログという形で毎日自分の気持ちを言語化しているのだから、もっと言葉を丁寧に扱わねばもったいないじゃないか。「初心にかえる」である。おっさんよりも、瑞々しい感性を内に持とうぞ!
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今、私がブログを書いている間に、相方とZ氏は朝ごはんを作ってくれている。私は相方の鼻歌に合わせて、PCでヅカミュージックなど流すなど。
↑ふたりが作ってくれた朝食。立派な和定食じゃないか!
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若いカップルの輝きと内なるおっさんと
昨夜Z氏が連れてきたお若いLカップル、初々しいふたりに四十路Lたちが「馴れ初めは?」などと下世話な質問を投げかける。久しく恋愛のきらめきから遠ざかっている私には、ふたりの若さと透明な輝きが眩しい。聡明さの滲む言葉で、始まったばかりの「ふたりのあれこれ」をチラ見せしてくれるおふたり。
自分より若い人と話す時、限りなく「おっさん」的になっていく自分を感じる。年長者のどうでも良い経験則を開陳し、したり顔で話す自分を俯瞰で見ると、「きもいわ、お前!」と頭を叩きたくなる。世の中で叩かれまくり、時にはネタ的に面白がられる「おっさん」は、女である私の中にも生きているのだな〜。
「恋人」という言葉
内なるおっさんにやや引きしつつも、「馴れ初めインタビュー」は続く。恋愛話の中で時々聞かれる「人を好きってことがよく分からない」という言葉、すでにお付き合いしているふたりの口からも溢れる。
「相手に惹かれるというのは分かるけど、恋人とか愛してるという言葉はしっくりこない」とおっしゃる。ふたりの関係に名前を付けるのがどうもね、という感じらしい。自分たちの感覚や言葉への繊細な姿勢、私にもそんな時代が……記憶にないね。
おっさんな私は「そもそも日本人は実感を伴った「愛してる」なんて、なかなか言わないかもね」なんて言っちゃう。そんな話はどうでも良いのよ、ふたりの超個人的な実感の話をきけよ、とノリツッコミしちゃうよね。
言語化の弊害
おふたりは非常に「言語化」が得意とお見受けしたが、それでもというか、だからこそというか、言葉が実感を裏切ることに敏感な様子。Z氏や相方は「言葉にするの難しい〜」と言う。私は言葉に置き換えないと気持ちが悪い、無理矢理にでも言葉にしたい人。
言語化は輪郭を与える作業、実感を切り取り言葉という箱に入れる作業。本来はもやもやとつかみどころのない想念、気持ちが、言葉になることで掴めるようになるのだが、その作業では何かがこぼれおちたり、余分が混じってしまったりする。
自分の実感に誠実であろうとすると、自然と慎重に言葉を選ぶようになるし、Z氏や相方のように「言葉にするのは難しい」となる。易々と言語化してしまう私のような人間は、効率的ではあるが丁寧さに欠け、ともすれば選んだ言葉が実感を反映してない事態も起こりうる。
若さに習いたい
若いふたりとの会話は、もう少し言葉を丁寧に扱っていた頃を思い出させてくれた。そう、相方と知り合いお付き合いが始まったばかりの頃は、「相方のセンスに響く言葉を」と緊張感のある言葉選びをしていた気がする。
せっかくブログという形で毎日自分の気持ちを言語化しているのだから、もっと言葉を丁寧に扱わねばもったいないじゃないか。「初心にかえる」である。おっさんよりも、瑞々しい感性を内に持とうぞ!
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