仕事中に同僚たちが、しきりに「忘年会の社長席問題」について話してるのだが、聞いているうちにふつふつと怒りが湧く。社長席に合理的な理由なく女性社員のみを同席させようとするのは、セクハラ、パワハラじゃないのか?我が社にコンプライアンスなんて言葉はないようだ。

何が頭にくるって、社長の態度から「俺のいうことは黙って聞け」という心の声がだだ漏れだからだ。私たちはあんたの奴隷じゃないし、コンパニオンでもない。業務外のことで言うことなんか聞けるか!



style="display:inline-block;width:336px;height:280px"
data-ad-client="ca-pub-5869483790913921"
data-ad-slot="2637820497">




唯一の師

学生時代、合唱団でお世話になった先生が亡くなった。宗教音楽の専門家であり、自身も洗礼を受けたキリスト者だった。宗教曲を歌うのにキリスト教のバックボーンを全く持たない私たち学生に、様々な逸話を通してその世界を垣間見せてくださった。

大学の卒業旅行も、先生の案内でヨーロッパ三カ国を回った。先生が音楽家にまつわる場所を回るコースを考えてくださり、本場のオペラも数回鑑賞。とても贅沢な旅行だったのに、当時の不勉強な私はその価値を堪能するに至らず。

思えば学校時代から今までの人生で、心から「先生」と呼べるのはこの方だけかもしれない。学ぶというのは試験に受かることなんかじゃなく、崇高なる高みを目指すことである。そして、その歩みは終わることはないと、先生が教えてくれた気がする。あぁ、私は今も「学ぶ」が上手にできない不出来な学生のままです。



宗教心

梨木香歩氏のエッセイを読んでいる。こちらにも、度々キリスト教世界的な記述が登場する。非常にアカデミズムな香り高いエッセイで、読んでいると「もっといろんな本読まなきゃ」と思う。



特定の宗教について深く知ることない人生なので、宗教心というものを明確に分かりはしないのだけど、「大いなる何か」への帰依みたいな気持ちはなんとなく理解できる。四十路を超えて、若い頃よりは経験も想像力も深みを増しているということか。

私という意識が私と言う肉体に宿った不思議は、信仰宗教の有無を超えてあるものではないだろうか。命というもの、魂というもの、私というもの、科学で説明されても、完全には納得できないもの。


宗教の本質なんて全然わからないけど、キリスト教について少し考えるだけで、なんとなく心が浄化された気分。そういう心の動きこそ宗教なのか。

先生、今からでも遅くないなら、もう少し学ぶのが上手な人間になりたいです。キリスト教世界についても、もう少し勉強してみます。



style="display:inline-block;width:336px;height:280px"
data-ad-client="ca-pub-5869483790913921"
data-ad-slot="2637820497">




人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村