昨日は1.17、25年前のあの日を振り返る1日。四国もかなり揺れたが、高校生だった私には関西は遠い場所だった。

戦争も災害も「あの悲しみを忘れるな、風化させるな」と言われるけど、「悲しいことを忘れるのは悪なのか?」という気持ちになる。テレビで殊更「哀」や「恐」を強調する番組を見てしまうと、不安を煽る悪質商法を思い出す。




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山田詠美氏「明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち」

私は自分が引き裂かれるような悲しみに出会ったことがない。身近な人の死に接したこともないせいか、1.17や3.11についてどういう気持ちを持てばいいのかわからなかった。先日読んだ山田詠美氏の作品は、そんな私にヒントをくれたような気がする。



両親の再婚で生まれたある家族の物語。誰にとっても特別だった息子の死が、家族の形を変えていく。息子を溺愛していた母はアルコール依存に、血の繋がらない息子はそんな母に執着、父や娘は現実と哀しみの間で苦しむ。再婚後生まれた娘も、死んだ兄の存在に振り回される。

「息子/兄が死んだ」という同じ事柄に対して、家族それぞれが違う形で接している。いつまもで実感を伴って「存在する息子/兄」。客観的には歪んでいるように見えるけど、どんな哀しみ方も自由だよなと思える。



それぞれの感情

この作品は3.11の後に書かれたもの。あとがきに3.11の直後にビートたけし氏が語ったことが書かれている。
この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。
ビートたけし氏「ヒンシュクの達人」より。 
戦争も災害も、塊として捉えようすると「ただの歴史的事件」でしかなくなってしまう。テレビが大惨事の只中にいた1人を取り上げて描こうとするのは、歴史的事件を個別の死に分解して見せるためなのかも知れない。ただ過度に感情的な演出で「どう受け取るべきか」まで含めて見せられるから、見ていてしんどくなるのだけど。

ひとつの死も、受け取り手にとっては別々の事件である。似たような感情を共有することはできても、その影響はバラバラで対処の仕方もそれぞれ。それは誰にも強制されるべきじゃない、それぞれの方法で良いのだと思う。



哀しみを避けるために

戦争も災害も私には実感を伴わない事件でしかないけど、だからといって軽んじているわけじゃない。距離を持って見られる人間だからできることもあるはず。なぜ忘れてはいけないのか、風化させてはいけないのか。繰り返さないためなら、冷静な思考と現実的な対処が必要なはずだ。国や自治体の制度を変えるためなのなら、そのための一票を投じることもできる。

年に何度か来る「風化させない」にもやもやしてたけど、そういう風に考えればテレビの過剰な演出も致し方ないのかなと思える。人の行動は常に感情というガソリンで動く。感情的になった次に何をするか、そこに目を向ければいいのだな。戦争や災害に対する私なりの態度を見つけた気がする。



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